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カテゴリ:大和舎( 7 )

武士道(二)

誇り高き武士道


紀元二千六百七十五年三月十三日

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                   大日本帝國陸軍中川州男大佐

 平成二十七年四月パラオ共和國からの招請に戰後七十年が經ち初の  
天皇、皇后兩陛下の巡幸が確定された。
 戰後六十年に當る、平成十七年六月二十七日二十八日と北マリアナ諸島サイパン島へ親善目的ではなく慰問目的而已にて行幸遊ばれてゐる。其の際パラオにも巡幸爲さりたいとの強い御希望であつたが、パラオ共和國竝び周邊諸國の環境が整はず斷念せざるをへなかつた。
 今囘、パラオ共和國巡幸は平成二十七年四月八日御出發なされパラオ共和國、バベルダオブ島、コロール島を巡幸、翌九日ペリリュー島、バベルダオブ島と巡幸なされ、先の大戰に散華せし一万六千御魂英靈竝び米國三千犧牲者の慰靈目的は勿論の事だがトミー・レメンゲサウパラオ大統領他近隣諸國大統領とも國際親善を深めるものである。
 心臓の冠動脈バイパス手術を爲され體調が危惧される中、長きに渡る熱望の御巡幸は能く能く喜ばしい事であるが、拙生の最も喜ばしきはペリリュー島巡幸である。
今上陛下は、ペリリュー島にて八紘為宇を基にした武士道を貫徹し島民一人として犧牲者を出す事無く、七十三日間にも及ぶ激戰を戰つた英靈を忘れる事無く居て下さつた事である。
 先の大戰にて南太平洋戰線では數多の激戰が行はれたが、ペリリュー島の戰は謂はば一般人、島の住民を一人として死者、負傷者共に犧牲者を出さなかつたのである。
 パラオは一六世紀頃、海運技術の進歩によりヨーロツパ人が訪れるやうになり一八八五年にスペインの植民地にされた。ヨーロッパ人により天然痘などが持込まれ、パラオの人口は九割程度減少した事もある。
 國力が衰退の一途を辿つてゐたスペインは、一八九九年グアムを除くスペイン領ミクロネシアを四五〇万ドルでドイツに賣卻、パラオもこれに含まれ以降ドイツ植民地と爲つてゐた。
 ドイツはココナッツ、タピオカ栽培、アンガウルに於けるリン礦石採掘などの産業振興を行つたが、
國民福祉の向上と國民經濟の発展に必要な公共施設や教育施設に一切着手せず、他の植民地同樣搾取する而已。當然の如く島民への扱ひは奴隸であつた。
 一九一四年に第一次世界大戰が勃發。當時連合國の一國であつた日本は海軍を派遣しドイツを降伏せしめパラオを解放、パリ講和會議によつて、大正八年パラオは日本の委託統治と爲つた。
 日本委託統治の明治十八年には居住者三万三千九百六十人、其の内訳は内地出身日本人二万五千二十六人、朝鮮半島出身日本人二千四百六十人、パラオ人先住民六千四百七十四人、其の他スペイン人・ドイツ人宣教師十八人と四分の三は日本人であつた。
 日本の統治が始つてからは病院、學校、道路等等國民福祉の向上と國民經濟の発展に寄與した。亦、米食の習慣を定著させ、茄子や胡瓜など野菜やサトウキビ、パイナツプルなどの農業を持ち込み、マグロの罐詰やカツオ節などの工場を作つて雇傭を創出した。道路を鋪裝し、島々を結ぶ橋をかけ、電氣を通し、電話を引いた。
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             当時の、パラオの首都のコロールは一方の都市と成つた

 更に現地先住民には友達、仲間と差別する事無く接しドイツ植民地時代には同室にゐるなど有り得なかつた。亦、共に呑み、共に歌ふ酒盛をし、日本人は差別しないと徐々に受け容れられるやうになつた。
 子供達の學校教育もパラオの文化を守り乍ら共に歌ひ共に學びと日本語も教へ、公用語として受け容れられた。其の事で未だパラオでは日本語の歌や名前が存在してゐる。
 大東亞戰爭末期には南洋群島周邊では烈しい戰が數多くあり。ペリリュー島に於ても日米兩軍の壯絶な七十三日間にも及ぶ戰ひが有りました。
 米軍は、日本軍の兵力の約四倍・航空機二百倍・戰車十倍・重火砲百倍以上の壓倒的軍事力で總攻撃をすると情報に島民は仲間と話合つた結果、代表數人と共に守備隊隊長中川州男(くにお)大佐を訪れ、「私達も仲間として共に戰はして欲しい」と申出をした。
其を聞くなり中川大佐は激昂し「帝國軍人がきさまら土人と一緒に戰へるか」と叫んだ。
日本人は仲間だ友達だと云ひ乍ら見せ掛けだけで、我我を欺いてゐたのかと島民は裏切られた氣持に涙を流した。
 空襲を避ける爲、島民全てが強制疎開に船に乘り島を去る夜、日本兵は誰一人見送りに來ない。島の若者達は、悄然と船に乘込んだ。
 然し、船が島を離れた瞬間に日本兵全員が夜の濱に走り出て來て、一緒に歌つた唄を歌ひ乍ら手を振つて彼らを見送つてゐた。
 月の光に照された其の先には、先頭に立ち笑顏で手を振るあの守備隊長中川大佐がゐた。
其の瞬間、あの言葉は自分達を戰火に交へる事なく救ふ爲だつたと悟つた。
 七十三日間の壯絶な戰ひの中、守備隊は何度も指令本部へ玉碎を申出たが、指令部は死守せねば本土への攻撃が加速されるとして何としても死守せとの命令だつた。
 守備隊に取つて彈藥も食料も底を盡き死守する事より玉碎の方が如何に樂だつたか。にも拘はらず七十三日間も持ち堪へ、最後に守備隊長中川州男大佐、師団派遣参謀村井権治郎少将、飯田義栄中佐の割腹自決の後、玉砕を傳へる「サクラサクラ」の電文が送られた。殘りの日本兵は自決する武器彈藥すらなく自決出來ぬ事を恥ぢた五十數名が殘つたが捕虜として捕へられた。
 パラオ海域日本軍戰死者一万六百九十五名
 内ペリリューウ島戰死者一万二百名
    捕虜 二百二名
 内ペリリューウ島生存者三十四名
 パラオ海域亞米利加軍戦死者 一千七百九十四名
    戦傷者 八千十名
此の他守備隊の烈しい抵抗に精神に異常をきたした者が數千名ゐた。
 亞米利加軍は壓倒的軍事力にて三日で制壓出來る豫定だつた。然し、中川州男大佐率ゐるペリリュー島守備隊の國を家族を、そして島民を守らむとした武士道精神が奮鬪せしめた。戰ひは激烈な戰ひとなり七十三日間も續いたのだ。
 壯絶な激戰も終へペリリュー島へ歸つた住民は、無造作にころがる共に働き、歌ひ、呑み、語りあつた日本兵の多くの屍體を見て聲を上げ泣いた。
 亞米利加は自國の兵士の遺體のみを囘收したが日本兵には目もくれる事は無かつた。住民は占領國征服民族の本性を見たと嘆き、島民擧つて涙して日本兵の遺體を集め埋葬した。
 大東亜戰爭終結後、パラオなど南洋の島々は亞米利加の統治領となつたが、ペリリュー島島民に依つて作られた墓を現在も尚、守り清掃が爲されてゐる。
 此の戰の生存者に聞けば、皆同じく口を揃へ、あのやうな戰爭は二度としたくない。然し國の爲家族の爲そしてペリリュー島住民の命を守つた事は誇に思ふと云ふ。而、パラオ國民は如何に思ふかと云へば當時の經驗を御老人が若者のへ傳へてゐる。日本が來てから植民地とされ奴隸と爲つてゐたパラオを解放、傳統文化を殘しつつ見張るばかりの發展を遂げた。更に心豐に營んだ生活は忘れ得ぬものと傳へられてゐる。亦、パラオハイスクールでは日本の教育は八紘爲宇を下に如何なる者も全て平等に扱ひ差別はない。日本人であらうが先住民であらうが努力した者を平等に評價したと教へられてゐる。
 因にパラオの國旗を知つてゐるだらうか。パラオの國旗は日本の國旗に極めて類似してゐる。と云ふのは日本に對する敬意から作られたものである。日本の國旗は白地に赤の太陽が印されてゐるが、パラオの國旗は海を表はす青地に黄色の月が印され、更に同じデザインでは日本に失禮として月を少し左に印されてゐる。亦、月は太陽が出なければ輝く事が出來ない。つまり、月は太陽に依つて支へられ、月として生命を持つとされ、太陽は日本の事である。
 右記記された事は、神代の教へからなる八紘爲宇の教へを基にした武士道から爲された史實である。
 此の事を日本人は知る者は極く稀であり、國に誇を持つ爲にも教育の場にて傳へる可きであると拙生は切望するものである。

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            日本国旗
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            パラオ国旗


 昭和五十六年
  パラオ獨立の記念に
   パラオ國民により作られた唄

ペリリュー島守備隊を讚へる唄

一、激しく彈雨(たま)が降り注ぎ
  オレンジ濱を血で染めた 
  つわものたちは皆散つて
  ペ島は全て墓(はか)となる

二、 小さな異國のこの島を
   死んでも守ると誓ひつつ
   山なす敵を迎へ撃ち
   彈撃ち盡し食糧もない

三、 へいしは櫻を叫びつつ
   これが最期の傳へごと
   父母よ祖國よ妻や子よ
   別れの「櫻」に意味深し

四、 日本の「櫻」は春いちど
   見事に咲いて明日は散る
   ペ島の「櫻」は散り散りに
   玉碎れども勳功はとこしえに

五、 今もののふの姿なく
   殘りし洞窟の夢の跡
   古いぺ島の習慣で
   我等勇士の靈魂守る

六、 平和と自由の尊さを
   身をこなにしてこの島に
   教へて散りし「櫻花」
   今では平和が甦へる





https://www.youtube.com/watch?v=3Yv471RNBfo&feature=player_embedded
この動画を是非見て頂きたい。






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by iamhide3897 | 2015-03-13 23:30 | 大和舎 | Comments(0)

囘教原理主義暴徒集團に對し

アイシル、
イスラム暴徒集團に對し


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 先日、某團體の長より機關紙が屆き讀んでみれば、本來連載す可き記事を變更、目下世相に議論されるISIL囘教原理主義の暴徒に對し、我我日本臣民は如何なる對應を執らねば爲らぬかを先哲に學べとして山崎闇齋先生、相模太郎、藤田東湖先生、大橋訥庵先生他多くの先人達の言葉を借り誰にも解るやう説いてゐた。強く感銘するものであつた。
 而、拙生は如何に捉へたかと云へば、某團體の長曰く全く其の通りであり、報道各社の稚拙な利に捉はれる報道に惑はされる事無かれと確信するものである。
 此處の所、拙生の所には樣樣な聯絡があり、中には可なり過激な行動を誘する知らせもある。更には囘教徒と共鬪しよふ等と誘する呆然となるものさへある。此は報道に惑はされ本來の姿を見失つた者と判斷する。我我民族派を稱する者として恥づ可きものと拙生は考へる。
 湯川遙菜、後藤健二兩氏を拘束殺害に及んだ。彼らアイシルは兩氏殺害の際「日本の惡夢が始る」としてゐる。彼らが國家であらうが一傍若無人な團體であらうが皇國に對する宣戰布告を行つた敵と成つた事は疑ふ餘地はない。
 報道各社の云ふ戰後民主主義を基にした個人の生命、權利、尊嚴は確かに尊きものである事は間違ない。然し其の個人の據る所の國家の名誉と尊嚴は更に尊きものである可きであらう。
一般の日本國民もさる事乍ら、民族派を稱する者ならば尚の事、稚拙な報道に惑はされ愚かな行動に移す事は時期尚早であると斷言する。
 湯川遙菜、後藤健二兩氏の拘束報道以來日本中が浮き足立つてゐる。更に云へば此の責めは何處にあるか搜り追求する事に奔走する始末、本來の姿を忘れ恥づ可き姿を暴し茫然と爲るばかりである。
 確かに兩氏の生命は尊いものである。然し、更に尊む可きは一億二千萬國民の據る所である皇國に外ならぬであらう。
 此のやうな宣戰布告に對し、防衞には專守防衞が必需であらう。而、專守防衞の條件は擧國一致が必然である。擧國一致つまり政、官、財、民が一體とし對處する事が必望される所である。
 拘束報道以來の日本はどうあらう、浮き足立つばかりで足の引つ張り合ひ、あら搜し、揚足取りと國會而已ならず日本中が此の事に奔走する始末である。
 我我日本國民が守らなければ爲らぬものは國是、而て國是とは皇國日本宮城奉護の大義であり、どのやうな状況下にあつても守り受繼いで來た、先哲の遺産であり悠久の歴史の中、神代の時代からの教へであるが故に、大東亞戰爭勃發當時西歐列強が最も恐れた日本民族の君民一體を基本とする擧國一致の精神は連合國により破潰されやうとした。然し、衰退こそせども、未だ日本民族の遺傳子に存續されてゐる事が東日本大震災の際世界中を驚愕せしめた事が證明である。
 依つて我我民族は先哲に多くを學び君民一體を本分とし專守防衞を達成す可く勤める事肝要と心得る。















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by iamhide3897 | 2015-03-09 12:49 | 大和舎 | Comments(0)

此の命・義に捧ぐ

戰神と呼ばれ
臺灣を救つた男


   北支那方面軍司令官、元陸軍中将根元博
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 先日、誇ある武士道と云ふ事で日乗掲載をした事もあり、偶偶散歩の途中書店にて「惻隱の心」と云ふ文字に反應してしまつた。
 惻隱の情とは前囘説明したので此處で説明は無用と考へる。目に附いたのは儒教の本であつた。
 元來小生は日本に於ての儒教とは、支那東周春秋時代、魯の孔子によって體系化された學問であるが、朝鮮半島を經て日本傳來となり「儒教を學ばざるして武士と云はざる」と迄云はれたやうに浸透したものである。然し、其の儒教は日本の傳統文化に照し合せ、日本の儒學者であつた山崎闇齋先生や門人淺見絅齋先生等によつて確立された崎門學であると小生は信ずる。
 而、「惻隱の情」とは神武天皇敕語「八紘爲宇」から日本古來より育まれた教へであると信ずる。
 閑話休題、書店にて「惻隱の心」と書かれた書物の側に『此の命・義に捧ぐ』と或る書物に惹かれ立ち讀み、買はうとしたが残念乍ら散歩の途中財布を持つてゐない。自宅へ返り調べてみれば、何と武士道に繋がる事であつた。
 大東亞戰爭終戰當時、北支那方面軍司令官、最高責任者として戰後處理を務めた、根元博元陸軍中將の事が書かれたものである。北京に於て無條件降伏調印式が行はれた直後、ソ聯は武裝解除した軍人而已ならず占領した満州・北鮮・樺太・千島にゐた民間人、約百七萬人がシベリアやソ聯各地に送られ共生勞働させられた。つまり抑留である。
 根元中將は邦人を守りながら戰勝國となつた中華民國蒋介石總統に交渉し、在留日本人四萬人の内地歸還と北支那方面の三十五萬将兵の復員を終らせ、最後の船で歸國した。此の事で根元博は軍民合せ三十九萬人の命を救つてくれた蒋介石に生涯恩誼に感ずるとしてゐた。
 根元博は昭和二十四年復員後、東京町田市鶴川の自宅に過した。
 支那に於て昭和二年から始つてゐた國共内戰が一時大東亞戰爭により中斷してゐたが再發。
 恩誼ある蒋介石が窮地に立たされてゐると聞き、矢も楯もおられず明石元長の畫策にて宮崎港を出港つまり密出國である。最短ルートを取り臺灣北部基隆(キールン)港へ十四日を掛け上陸した。
 根元は家族に密航幇助の罪が及ぶ事を恐れ、一言も話さず家を出る際には愛用の釣竿一本を携へ釣に行くと云つて其の儘吉本是二と共に福岡へ向つたのである。
 明石元長は臺灣が日本統治下時代、總督を努めた明石元二郎の息子で根元、吉本の臺灣密航を手引した人物である。宮崎港出港を見送り過勞の爲、東京自宅へ戻り四日後四十二歳でこの世を去つた。明石元長はGHQ占領下にあつて密航計畫の苦難は幾何のものであつたか想像を絶するものであつたであらう。
 根元博、吉本是二の兩名は基隆港上陸後、密航者として身柄を拘束され投獄された。而、投獄が嘗て交流のあつた國府軍上層部へ傳はるや待遇は一變、臺北へ移動し北投温泉での靜養を經て、基隆港上陸から約一ケ月後の昭和二十四年八月蒋介石と再會する。
 時おりしも米國が國民黨政府への軍事支援打ち切り、蒋介石は根本の申出を受け容れた。
 根元は臺灣名「林保源」吉本は「林良材」と名を變へ湯恩伯の第五軍管區司令官顧問、中将に任命された。亦、湯恩伯は根本を「顧問閣下」と呼び禮遇した。
 根元は大軍勢を相手に厦門(アモイ)での鬪ひは、條件不利として放棄し、金門島を據點とする事を提案、直接指導に当たつた。
 程なく國府軍は厦門(アモイ)を失陥。金門島での決戰が迫る中、根本は塹壕戦を指導、十月二十四日、金門島における古寧頭戦役を指揮、上陸してきた中國人民解放軍を撃破、同島を死守したのである。
 此の戰の際、人民解放軍を敢て上陸させ乘つて來た船を攻撃燒はらい後續を絶つ作戰に出た。更に激戰の末人民軍を島北西部にあるコノエイ村に追ひ詰めた。國府軍は集中砲火を浴びせ撃滅する作戰をとるとしたが、根元は村人にも死傷者が出る。村人の命は守る可きだとして猛反對した。
 根元は敢て退路を一箇所だけ開けて退路に集中する人民軍全てを捕虜にし流血を最小限に押さえたのである。
 十月三十日、湯恩伯は「林保源」を含む部下達と共に、台北に凱旋。その後、金門島を巡って三年に渡り戰神と讚へられ激戰を指揮、金門砲戦が展開されたが、後に根本らの歸國後も、人民軍は根元の計畫した作戰を破る事叶はず、現在に至る臺灣の存在が確定した。
 根元、吉本等歸國に先立ち、蒋介石は根元等の功績を讚へ、感謝の品として、英國王室と日本の皇室に贈つた物と同じ花瓶を根本に贈呈してゐる。本來花瓶は一對だが釣り竿を持つ老子が描かれた片方の花瓶を渡し、もう片方は現在も尚、中正記念堂に展示されてゐる。
 昭和二十七年六月二十五日、民航空運公司機により日本へ歸國したが、三年前の密出國については不起訴處分と爲つた。晩年は鶴川の自宅で穩やかに過ごしてゐたが、昭和四十五年五月五日、孫の初節句の後に體調を崩して入院。同月二十一日に一度退院するも、二十四日に急死した。享年七十四歳だつた。

 平成二十一年に行はれた古寧頭戰役戰没者慰霊祭に根本の出國に尽力した明石元長の子息・明石元紹や、根本の通譯として長年行動を共にし、古寧頭の戰ひにも同行した吉村是二の息子・吉村勝行、その他日本人軍事顧問団の家族が臺灣政府に招待され、第十二代総統・馬英九と會見した。
 亦、明石元紹と吉村勝行の歸國の際、中華民國國防部常務次長の黄奕炳中将は報道陣の前で「國防部を代表して」當時、古寧頭戦役に於ける日本人關係者の協力に感謝してをり、是は『雪中炭を送る(困った時に手を差し延べる)』の行爲と云へる。とした感謝の言葉が述べられた。
 此の事により、台灣政府により正式に日本人の關與が初めて公表された事になつた。
「臺灣を救つた戰神として今尚讚へられてゐる」














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by iamhide3897 | 2014-11-09 14:16 | 大和舎 | Comments(0)

武士道

誇り高き武士道

紀元二千六百七十四年十一月三日


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                        最終階級
                        大日本帝國海軍 工藤俊作中佐

 本日、偶偶某民放にて危險を省みず四百二十二名の敵海兵を助けた日本海軍將校を讃へる番組が放映された。
明治天皇の發された教育敕語の延長線上にある、海軍兵學校の教へ「惻隱の情」を當時海軍兵學校長であつた後の首相鈴木貫太郎は強く教へた。
 其の教へを己の立場を省みず實踐したのが大東亞戰爭當時、驅逐艦「雷」の工藤俊作艦長だつた。
 海軍少佐工藤艦長は昭和十七年、驅逐艦「雷」にてスラバヤ沖海戰の掃討戰に於いて撃沈された英海軍重巡「エクセター」英駆逐艦「エンカウンター」等の乘組員四百二十二名を敵潛水艦の魚雷攻撃の危險を侵し救助した。翌日、パンジェルマシンに停泊中のオランダ病院船「オプテンノート」に捕虜を引き渡したのだ。
 當時は敵兵を救助するなどと云ふ行爲に對し「非國民」と云ふ拭ひ切れない汚名を受ける事になる。然し、工藤艦長は敢て鈴木貫太郎校長の教へ「惻隱の情」を實踐した。
「惻隱の情」とは例へ敵兵であらうが鬪ひが終へた後は、御互の健鬪を讚へ勝者が敗者に對し敬意をはらい思ひやる心。弱者に對する思ひやりの心。武士道の眞髓に他ならない。更に工藤艦長は、救助されたと云へ捕虜に變りはなく怯える敵海兵將校を全て集め「貴方達は御國の爲、勇敢に鬪つた誇ある勇士である。貴方方は當艦の名譽あるゲストである」と決して捕虜と云はず勇者に敬意を示した。此も亦、武士道の一節にある「勇者は勇者を認む」を實踐したのである。
 此の事實は終戰まで公表去れる事はなかつた。終戰後東京灣上に於て米英艦隊の中、米戰艦ミズリー號の甲板にて降伏文書調印式の際、參加してゐた英國海軍の戰艦艦長室に「エクセター」「エンカウンター」等の乘組員救助に感謝と武士道に對する敬意を示す「惻隱の情」が掲げられてゐた。亦、當時救助された元イギリス海軍士官、サム・フォール氏は英國外交官を歴任。著書である自傳マイ・ラッキー・ライフの初めに此の事實「誇り高き武士道」を記載してゐる。
 此は某民放の番組を觀て知つたのではなく、一昨年四月、某民族派團體同血社、河原博史會長の唆しにあひ・・・・・・失言御誘に北海道旭日會主宰講演會に參加した際、講師惠隆之介氏の公演中聞いてゐた事である。
 講師惠隆之介氏は沖繩縣古座市、現在の沖繩市出身、防衞大學、海上自衞隊幹部候補生學校、護衞艦勤務の後、二等海尉で退官、拓殖大學客員教授、沖繩國際大學非常勤講師を努める人物で護衞艦勤務當時、各國海軍との交流もあり未だ英國海軍一部艦船には艦長室に「惻隱の情」が掲げられてゐるとの事を云つてゐた。
然し、此の番組を觀て漸く公に公表された「誇り高き武士道」に昂奮を覺える。








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by iamhide3897 | 2014-11-04 00:34 | 大和舎 | Comments(0)

命日に思ふ

人生幸福
感謝より發(はつ)る


 人間は先ず此の世に生を受けた時、産聲と云ふ雄叫びをあげ父母に最初の感謝する。其後、毎年誕生日が訪れるが戰後民主主義導入後、宗教(耶蘇教)上の風習によつて誕生日を祝つて貰ふ事が正當とされてゐる。然し、日本の慣わしは元服など人生の節目に祝ふ事はあつても毎年祝ふ事は極稀な事である。本來誕生日は生を與へて呉れた父に、命懸けで此の世に産んで呉れた母親に感謝する日である。
 成長する上で知識、見識、人格向上と教育を與へて戴いた事に感謝。「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ」と教育敕語にあるやうに己に拘はる人人、兩親、先祖に感謝す可き事である。
 亦、「神は人の敬いにより威を増し、人は神の徳によつて運を添ふ」と御成敗式目にあるやうに此の世に生を與へた神に感謝する事で人は幸福と云ふものを授かるものである。
 是は、拙生個人の人生に學んだ事であるが、實父彌吉郎が亡くなつた時の事である。父が肺炎にて入院し囘復の傾向に向い次期退院と云ふ頃、病状が急變病院より聯絡があつたさうだ。母が向うと父は「何しに來た」と云い乍ら母の手を握り昔噺を始め小一時間が經つた頃。母が皆が來るから頑張つてと云ふと「此處まで頑張つた、未だ頑張れとは俺を殺す氣か」と死に際に冗談を云ふ程であつたさうだ。此の冗談を聞き母は皆が來る迄は大丈夫と思つたさうだ。然し、昔噺の後「皆が來ても泣くなと云へ、今迄ありがとうな」と云ひ終へると息を引き取つたさうだ。 後に醫師から其の時の話しを聞けば醫師は一言「侍ですね」と云ふ。「今迄に多くの人を看取つて來たが自分の云う可き事を全て云ひ終へて息を引き取つた人は初めてです」との事であつた。
 其の父は親類に聞けば若かりし頃、呑む、打つ、買う、女遊に鬱つをぬかすと惡業の限りを極めた人であつたさうだ。幼少の記憶に、母に手を引かれ家を出て夜の街を歩いた記憶がある。今で云ふプチ家出である。
 然し、現在母は家内に「うちの父さんは私に嫌な事は一切しなかつた」と云ふ。父の惡業を知る拙生には如何とも不思議な事としか云ひやうがない。死に際の「ありがとうな」が全てを洗い流したものであらう。
滅多になひが、母は生前の父と喧嘩をすると、家内に父の愚癡を零したものだ。其の後必ずものの序でに、拙生は父の惡い處だけを受け繼ぎ、父に酷似して居るから氣を附けなさいと餘計な事まで云ふのである。其がどうあろう今は母にとつて父は聖人君子の如くあるのだ。
 間際に云つた感謝の一言で全ての惡を洗い流し、幸のみが殘つたのだと學んだのである。
 常住坐臥、拙生の戲れ言である事は重重承知ではあるが、感謝する事を心掛けてゐる事で御世辭にも良い人と云つて貰へてゐる事は幸と云へるであらう。
 何事にも感謝する事で幸福が自然に附いて囘るものであらう。
 父の死ざまは此の上ない幸であつたであらう。亦、母にとつて父の死に際の一言は最大の感謝であり譽め言葉であつただらう。

 因みに本日九月二十七日は亡き父の命日だつた。











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by iamhide3897 | 2014-09-27 16:57 | 大和舎 | Comments(0)

先人に學べ

朝日新聞社長の
誤報謝罪會見を觀て


紀元二千六百七十四年九月十八日

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東電原發事故の吉田調書誤報、從軍慰安婦強制連行誤報、池上彰コラム掲載問題に附き朝日新聞木村(きむら)伊量(ただかず)社長が九月十一日謝罪會見を開いた。
この會見を觀て不思議な現象に違和感を覺える。朝日叩(たた)きに躍起(やつき)に爲つてゐる産經新聞、讀賣新聞も同じ穴の貉(むじな)であらう。風向きが變つたから便乘しただけに過ぎないのである。此は産經、讀賣新聞だけに留(とど)まらず全てのメディアに云へる事なのだ。更に吐き氣を覺える如何(いかが)はしき輩(やから)は政治屋、評論家、コメンテーター、ジャーナリスト等と云はれる無責任窮(きわ)まりない生き物である。此までに誤と知りながら毅然(きぜん)と誤を指摘する者など前記に擧(あ)げた者には只の一人も居らず。其どころか擁護(ようご)する者ばかりであつたのだ。風向き次第で如何様にも變る無責任窮まりない輩なのである。己の言葉に文字に全く責任を持つ事のない輩なのである。
而(しかして)、其の如何はしき輩が朝日新聞に對し責任追及をしてゐる。然し、己が容認して來た責任は如何にするのか。亦、朝日新聞に對し如何なる責任を取らせるのか。其が可能な事だとでも思つてゐるのか。まるで芸のない芸(げい)無人(のうじん)が楽屋ネタで笑いを取るが如(ごと)く低俗番組を觀てゐるが如きであつた。
今囘、明確にされた事は既に我我民族派而已(のみ)ならず、良識ある國民ならば疾(と)うに知り得てゐたものに過ぎない。責任追及と聲(こえ)を荒らげてゐる者の殆どが、其の事實を知りながら目を背(そむ)け、己の利害に合せてゐたのである。
池上彰のコラム掲載問題にしても同じである。今迄に池上彰が從軍慰安婦強制連行に附いて知り得た情報を發信した事が或(あ)るだらうか。此も又朝日新聞の誤報と云ふ虚僞報道が表面化が大きく傾いて來た事で、風向きが變り便乘しただけの事である。尤も其の風向きにすら乘れぬ程、勝手な持論を史實の如く公言してゐた田原総一朗などよりは自浄作用の働く池上彰の方が幾分ましである。
閑話休題、この問題は責任責任と非建設的な事を擧げても何の解決にも爲らず、非を認めたならば其の誤ち全てを解明訂正二度と發(おこ)らぬやう建設的解決へ繋(つな)ぐ可(べ)きである。
此の記者會見の場にて建設的發言が全くない事に、日本人の民族性が全く現はれてゐない事に違和感を覺えるものである。
 日本の御國(おくに)柄(がら)、民族性は神代の時代から變らず、何事も受容れ風土傳統文化に照し合せ改善して來た事にある。歴史を辿れば佛教、耶蘇教、儒教は全て受容れられ、日本流に改善されたものが廣まつてゐる。
例へるならば、儒教に關して餘りにも缺陷(けつかん)が多く、山崎(やまさき)闇(あん)斎(さい)先生、門人の浅見(あさみ)絅斎(けいさい)先生等により日本の傳統文化に照し合せ確率され崎門學(きもんがく)とされたものである。
確かに孔子を始祖とし思考・信仰の体系を發展させた。然し、朝鮮半島を經て日本に傳はつてから改善されたものが、在ま現在支那が確立したが如く云はれる儒教なのである。
此のやうに何事に於ても嚴肅に誤ちは誤ちとし訂正し、日本の神代からの教へ傳統文化に照し合せ改善繁榮して來た史實が儼然(げんぜん)としてある。つまり何事に於ても建設的歴史を育んで來たのだ。其の素晴しき古(いにしえ)の教へに背く事が平然と公の場に於て行はれてゐる事に大きな違和感を覺えるのである。
悠久の歴史を育んで來た先人が今の世を觀た時何と云ふだらう屹度(きつと)「御前達は先人の育んだものを蔑(ないがしろ)にし安易な方へと舵をきるのか、其でも日本人か」と云ふであらう。
此を正すには某團體の重鎭が云ふ「國の起源を思ふ若者に未來を託す」何を云はむとするか、悠久の歴史を學び、日本の傳統文化を孜々營々(ししえいえい)と築き上げて來た先人達に感謝の心を持てる若者を育て此からの未來を託す事が、多くの時間と大きな勞力を費いやする事に爲るであらうが確實に皇國の中興(ちゆうこう)復古(ふつこ)へ繋がるであらう。











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by iamhide3897 | 2014-09-18 03:42 | 大和舎 | Comments(0)

思い出の大和

大和舍(やまとや)

紀元二千六百七十四年九月十七日


 北海道勇拂郡穗別町稻里道有林番外地、現在穗別町はむかわ町と合併し穗別町は存在しない。
 其の稻里道有林番外地に昭和三十二年から四十三年迄十年と十餘月の間存在した大和(だいわ)鑛業株式會社稻里坑業所、所謂大和炭坑である。
 大和(だいわ)炭坑開坑當初から學校設立に盡力した初代校長大澤勘太郎先生に學び人として生きる基本を身にしたところである。
 通稱大和(だいわ)と云はれ人里離れた山奧に開坑した炭坑集落である。當然そこに働く人人は眞面目な勞働者が多くゐたが、世にをられぬ溢れ者、流れ者と云はれる者も多くゐた。確かに治安は頗る良いとは云へぬが互が助け合ひ日々の暮しを育んでゐたのだ。
 町場の人人からは流れ者の吹き溜りで危險な處、近づく可からず、又そこの者とは附合ふ可からずと云はれたが、決して小生はそうは思はなかつた。確かに休日ともなれば酒に醉ひ喧嘩沙汰、其も日本刀を振囘し、切つた張つたも有り、怪我人をトラツクの荷臺に乘せ隣町登川の診療所へ運んだ事も數多有つたが、當時はそれが普通だと思つてゐたのである。火事と喧嘩は江戸の花と云はれるやうに大和も活氣ある處だと思つてゐた程である。
 今思へば其も特殊な環境であつた事は歪めない、然し、幼少期から其のやうな環境に有れば其も又至極當然の事であらう。
 此のやうな中、大和小中學校全校生徒百六十有餘名、教員は校長、教頭を除いて十五名程。小生のクラスは十六名、皆兄弟のやうなものであつた。亦、どの家も鍵を掛ける必要もなく常に開け放されてゐた。然し乍ら竊盜などは一度も無かつたと記憶してゐる。
 そのやうに僻地ではあつたが長閑で心豐かな人人が活きる集落にある學舍から屋號を取つた。

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 今は亡き大澤勘太郎校長の記念誌への思ひ。
「長い間大和に活きた人人は、ヤマの燈は消えても、心の燈は何時までも燃え續ける事を念願してゐる。時に附け、折に觸れ、此の記念誌に在りし日の大和を偲んで頂きたい」 此の記念誌が出された事を小生は知らず二十數年の時が経ち、知り得た時には涙したものである。


 今は、國道二百七十四號線が整備され集落の跡形もなく約六百有餘名がそこに暮らしてゐたなど露程も思へぬ雜木林と爲つてゐる。唯一そこが大和だった事を示すものが國道に掛かる小さな橋の名稱が大和橋である。四十六年が過ぎ、何故か國道沿ひに廣く駐車帶が設けられてゐる。未だに時折その場に立ち涙する人を見ると土地の人は云ふ。














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by iamhide3897 | 2014-09-17 14:41 | 大和舎 | Comments(0)