
虚け者のぼやき
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この命・義に捧ぐ
戰神と呼ばれ
臺灣を救つた男
北支那方面軍司令官、元陸軍中将「根本 博」

先日、誇ある武士道と言ふことで日乗掲載をした事
根本は大軍勢を相手に厦門(アモイ)での鬪ひは、
臺灣を救つた男
北支那方面軍司令官、元陸軍中将「根本 博」

先日、誇ある武士道と言ふことで日乗掲載をした事
もあり、偶々散歩の途中書店にて「惻隱の心」と言
ふ文字に反應してしまつた。
惻隱の情とは前囘説明したのでここで説明は無用と
考へる。目に附いたのは儒教の本であつた。
元來小生は日本に於ての儒教とは、支那東周春秋時
代、魯の孔子によって體系化された學問であるが、
朝鮮半島を經て日本傳來となり「儒教を學ばざるして
武士と言わざる」と迄言われたやうに浸透したもので
ある。然し、その儒教は日本の傳統文化に照し合せ、
日本の儒學者であつた山崎闇齋先生や門人淺見絅齋先
生等によつて確立された崎門學であると小生は信ず
る。
而、「惻隱の情」とは神武天皇敕語「八紘爲宇」か
ら日本古來より育まれた教へであると信ずる。
閑話休題、書店にて「惻隱の心」と書かれた書物の
側に『この命・義に捧ぐ』と或る書物に惹かれ立ち讀
み、買はうとしたが殘念乍ら散歩の途中財布を持つて
ゐない。自宅へ返り調べてみれば、何と武士道に繋が
ることであつた。
大東亞戰爭終戰當時、北支那方面軍司令官、最高
責任者として戰後處理を務めた、根本博元陸軍中將の
ことが書かれたものである。北京に於て無條件降伏調
印式が行はれた直後、ソ聯は武裝解除した軍人のみな
らず占領した満州・北鮮・樺太・千島にゐた民間人、
約百七萬人がシベリアやソ聯各地に送られ強制勞働さ
せられた。つまり抑留である。
根本中將は邦人を守りながら戰勝國となつた中華民
國蒋介石總統に交渉し、在留日本人四萬人の内地歸還
と北支那方面の三十五萬将兵の復員を終らせ、最後
の船で歸國した。この事で根本博は軍民合せ三十九萬
人の命を救つてくれた蒋介石に生涯恩誼に感ずるとし
てゐた。
根本博は昭和二十四年復員後、東京町田市鶴川の自
宅に過した。
支那に於て昭和二年から始つてゐた國共内戰が一時
大東亞戰爭により中斷してゐたが再發。
恩誼ある蒋介石が窮地に立たされてゐると聞き、矢
も楯もおられず明石元長の畫策にて宮崎港を出港つま
り密出國である。最短ルートを取り臺灣北部基隆(キ
ールン)港へ十四日を掛け上陸した。
根本は家族に密航幇助の罪が及ぶことを恐れ、一言
も話さず家を出る際には愛用の釣竿一本を携へ釣に行
くと言つてその儘吉本是二と共に福岡へ向つたのであ
る。
明石元長は臺灣が日本統治下時代、總督を努めた明
石元二郎の息子で根本、吉本の臺灣密航を手引した人
物である。宮崎港出港を見送り過勞の爲、東京自宅へ
戻り四日後四十二歳でこの世を去つた。明石元長はG
HQ占領下にあつて密航計畫の苦難は幾何のものであ
つたか想像を絶するものであつたであらう。
根本博、吉本是二の兩名は基隆港上陸後、密航者と
して身柄を拘束され投獄された。而、投獄が嘗て交流
のあつた國府軍上層部へ傳はるや待遇は一變、臺北
へ移動し北投温泉での靜養を經て、基隆港上陸から約
一ケ月後の昭和二十四年八月蒋介石と再會する。
時おりしも米國が國民黨政府への軍事支援打ち切り
、蒋介石は根本の申出を受け容れた。
根本は臺灣名「林保源」吉本は「林良材」と名を變
へ湯恩伯の第五軍管區司令官顧問、中将に任命された
。亦、湯恩伯は根本を「顧問閣下」と呼び禮遇した。
根本は大軍勢を相手に厦門(アモイ)での鬪ひは、
條件不利として放棄し、金門島を據點とする事を提案
、直接指導に當たつた。
程なく國府軍は厦門(アモイ)を失陥。金門島での
決戰が迫る中、根本は塹壕戦を指導、十月二十四日、
金門島における古寧頭戰役を指揮、上陸してきた中國
人民解放軍を撃破、同島を死守したのである。
この戰の際、人民解放軍を敢て上陸させ乘つて來た
船を攻撃燒はらい後續を絶つ作戰に出た。更に激戰の
末人民軍を島北西部にあるコノエイ村に追ひ詰めた。
國府軍は集中砲火を浴びせ撃滅する作戰をとるとした
が、根本は村人にも死傷者が出る。村人の命は守るべ
きだとして猛反對した。
根本は敢て退路を一箇所だけ開けて退路に集中する
人民軍全てを捕虜にし流血を最小限に押さえたのであ
る。
十月三十日、湯恩伯は「林保源」を含む部下達と共
に、台北に凱旋。その後、金門島を巡って三年に渡り
戰神と讚へられ激戰を指揮、金門砲戦が展開されたが
、後に根本らの歸國後も、人民軍は根本の計畫した作
戰を破ること叶はず、現在に至る臺灣の存在が確定し
た。
根本、吉本等歸國に先立ち、蒋介石は根本等の功績
を讚へ、感謝の品として、英國王室と日本の皇室に贈
つた物と同じ花瓶を根本に贈呈してゐる。本來花瓶は
一對だが釣り竿を持つ老子が描かれた片方の花瓶を渡
し、もう片方は現在も尚、中正記念堂に展示されてゐ
る。
昭和二十七年六月二十五日、民航空運公司機により
日本へ歸國したが、三年前の密出國については不起訴
處分となつた。晩年は鶴川の自宅で穩やかに過ごして
ゐたが、昭和四十五年五月五日、孫の初節句の後に體
調を崩して入院。同月二十一日に一度退院するも、二
十四日に急死した。享年七十四歳だつた。
平成二十一年に行はれた古寧頭戰役戰没者慰霊祭に
平成二十一年に行はれた古寧頭戰役戰没者慰霊祭に
根本の出國に尽力した明石元長の子息・明石元紹や、
根本の通譯として長年行動を共にし、古寧頭の戰ひに
も同行した吉村是二の息子・吉村勝行、その他日本人
軍事顧問団の家族が臺灣政府に招待され、第十二代総
統・馬英九と會見した。
亦、明石元紹と吉村勝行の歸國の際、中華民國國防
部常務次長の黄奕炳中将は報道陣の前で「國防部を代
表して」當時、古寧頭戦役に於ける日本人關係者の協
力に感謝してをり、これは『雪中炭を送る(困った
時に手を差し延べる)』の行爲と言へる。とした感謝
の言葉が述べられた。
このことにより、台灣政府により正式に日本人の關
與が初めて公表された。
「臺灣を救つた戰神として今尚讚へられてゐる」
「臺灣を救つた戰神として今尚讚へられてゐる」
by iamhide3897
| 2014-11-09 14:16
| 大和舎
|
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