
虚け者のぼやき
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武士道(二)
誇り高き武士道
紀元二千六百七十五年三月十三日

大日本帝國陸軍中川州男(なかがわくにお)大佐
平成二十七年四月パラオ共和國からの招請に戰後七

日本国旗

パラオ国旗
紀元二千六百七十五年三月十三日

大日本帝國陸軍中川州男(なかがわくにお)大佐
平成二十七年四月パラオ共和國からの招請に戰後七
十年が經ち初の天皇、皇后兩陛下の巡幸が確定された。
戰後六十年に當る、平成十七年六月二十七日二十八
日と北マリアナ諸島サイパン島へ親善目的ではなく
慰問目的而已にて行幸遊ばれてゐる。その際パラオ
にも巡幸なさりたいとの強い御希望であつたが、
パラオ共和國竝び周邊諸國の環境が整はず斷念せざる
をへなかつた。
今囘、パラオ共和國巡幸は平成二十七年四月八日
御出發なされパラオ共和國、バベルダオブ島、
コロール島を巡幸、翌九日ペリリュー島、バベルダオ
ブ島と巡幸なされ、先の大戰に散華せし一万六千御魂
英靈竝び米國三千犧牲者の慰靈目的は勿論のことだが
トミー・レメンゲサウパラオ大統領他近隣諸國大統領
とも國際親善を深めるものである。
心臓の冠動脈バイパス手術を爲され體調が危惧され
る中、長きに渡る熱望の御巡幸は能く能く喜ばしいこと
であるが、拙生の最も喜ばしきはペリリュー島巡幸
である。
今上陛下は、ペリリュー島にて八紘爲宇を基にした
武士道を貫徹し島民一人として犧牲者を出すこと無く、
七十三日間にも及ぶ激戰を戰つた英靈を忘れること無く
居て下さつたことである。
先の大戰にて南太平洋戰線では數多の激戰が行はれ
たが、ペリリュー島の戰は謂わば一般人、島の住民を
一人として死者、負傷者共に犧牲者を出さな
かつたのである。
パラオは一六世紀頃、海運技術の進歩によりヨーロ
ツパ人が訪れるやうになり一八八五年にスペインの
植民地にされた。ヨーロッパ人により天然痘などが
持込まれ、パラオの人口は九割程度減少したこともあ
る。
國力が衰退の一途を辿つてゐたスペインは、
一八九九年グアムを除くスペイン領ミクロネシアを
四五〇万ドルでドイツに賣卻、パラオもこれに含まれ
以降ドイツ植民地となつてゐた。
ドイツはココナッツ、タピオカ栽培、アンガウルに
於けるリン礦石採掘などの産業振興を行つたが、
國民福祉の向上と國民經濟の発展に必要な公共施設や
教育施設に一切着手せず、他の植民地同樣搾取する
のみ。當然の如く島民への扱ひは奴隸であつた。
一九一四年に第一次世界大戰が勃發。當時連合國の
一國であつた日本は海軍を派遣しドイツを降伏せしめ
パラオを解放、パリ講和會議によつて、大正八年
パラオは日本の委託統治となつた。
日本委託統治の明治十八年には居住者三万三千九百
六十人、その内訳は内地出身日本人二万五千二十六人
、朝鮮半島出身日本人二千四百六十人、パラオ人先住
民六千四百七十四人、其の他スペイン人・ドイツ人宣
教師十八人と四分の三は日本人であつた。
日本の統治が始つてからは病院、學校、道路等等
國民福祉の向上と國民經濟の発展に寄與した。亦、
米食の習慣を定著させ、茄子や胡瓜など野菜やサトウ
キビ、パイナツプルなどの農業を持ち込み、マグロの
罐詰やカツオ節などの工場を作つて雇用を創出した。
道路を鋪裝し、島々を結ぶ橋をかけ、電氣を通し、
電話を引いた。

當時の、パラオの首都のコロールは一方(ひとかた)の都市と成つた

當時の、パラオの首都のコロールは一方(ひとかた)の都市と成つた
更に現地先住民には友達、仲間と差別すること無く接し
ドイツ植民地時代には同室にゐるなどあり得なかつた。
亦、共に呑み、共に歌ふ酒盛をし、日本人は差別しない
と徐々に受け容れられるやうになつた。
子供達の學校教育もパラオの文化を守り乍ら共に
歌ひ共に學びと日本語も教へ、公用語として受け容れ
られた。そのことで未だパラオでは日本語の歌や名前が
存在してゐる。
大東亞戰爭末期には南洋群島周邊では烈しい戰が
數多くあり。ペリリュー島に於ても日米兩軍の壯絶な
七十三日間にも及ぶ戰ひがありました。
米軍は、日本軍の兵力の約四倍・航空機二百倍・
戰車十倍・重火砲百倍以上の壓倒的軍事力で總攻撃を
すると情報に島民は仲間と話合つた結果、代表數人と
共に守備隊隊長中川州男(くにお)大佐のもとを訪れ、
「私達も仲間として共に戰はして欲しい」と申出を
した。
それを聞くなり中川大佐は激昂し「帝國軍人がきさま
ら土人と一緒に戰へるか」と叫んだ。
日本人は仲間だ友達だと言ひ乍ら見せ掛けだけで、
我々を欺いてゐたのかと島民は裏切られた氣持に涙を
流した。
空襲を避ける爲、島民全てが強制疎開に船に乘り島
を去る夜、日本兵は誰一人見送りに來ない。島の若者
達は、悄然と船に乘込んだ。
然し、船が島を離れた瞬間、日本兵全員が夜の濱に
走り出て來て、一緒に歌つた唄を歌ひ乍ら手を振つて
彼らを見送つてゐた。
月の光に照されたその先には、先頭に立ち笑顏で
手を振るあの守備隊長中川大佐の姿があつた。
その瞬間、島民全てがあの言葉は自分達を戰火に交へ
ることなく救ふ爲だつたと悟つた。
七十三日間の壯絶な戰ひの中、守備隊は何度も指令
本部へ玉碎を申出たが、指令部は死守せねば本土への
攻撃が加速されるとして何としても死守せとの命令だ
つた。
守備隊に取つて彈藥も食料も底を盡き死守すること
より玉碎の方が如何に樂だつたか。にも拘はらず七十
三日間も持ち堪へ、最後に守備隊長中川州男大佐、
師団派遣参謀村井権治郎少将、飯田義栄中佐の割腹
自決の後、玉砕を傳へる「サクラサクラ」の電文が
送られた。殘りの日本兵は自決する武器彈藥すらなく
自決出來ぬことを恥ぢた五十數名が殘つたが捕虜として
捕へられた。
パラオ海域日本軍戰死者一万六百九十五名
内ペリリューウ島戰死者一万二百名
捕虜 二百二名
内ペリリューウ島生存者三十四名
パラオ海域亞米利加軍戦死者 一千七百九十四名
戦傷者 八千十名
この他守備隊の烈しい抵抗に精神を異常きたした
亞米利加兵が數千名ゐた。
亞米利加軍は壓倒的軍事力にて三日で制壓出來る
豫定だつた。然し、中川州男大佐率ゐるペリリュー島
守備隊の國を家族を、そして島民を守らむとした武士
道精神が奮鬪せしめた。戰ひは激烈な戰ひとなり七十
三日間も續いたのだ。
壯絶な激戰も終へペリリュー島へ歸つた住民は、
無造作にころがる共に働き、歌ひ、呑み、語りあつた
日本兵の多くの屍體を見て聲を上げ泣いた。
亞米利加は自國の兵士の遺體のみを囘收したが日本
兵には目もくれることは無かつた。住民は占領國征服
民族の本性を見たと嘆き、島民擧つて涙して日本兵の
遺體を集め埋葬した。
大東亜戰爭終結後、パラオなど南洋の島々は亞米利
加の統治領となつたが、ペリリュー島島民に依つて作
られた墓を現在も尚、守り常に清掃がなされてゐる。
この戰の生存者に聞けば、皆同じく口を揃へ、あの
やうな戰爭は二度としたくない。然し國の爲家族の爲
そしてペリリュー島住民の命を守つたことは誇に思ふと
言ふ。而、パラオ國民は如何に思ふかと言へば當時の
經驗を御老人が若者へ傳へてゐる。日本が來てから
植民地とされ奴隸となつてゐたパラオを解放、傳統
文化を殘しつつ見張るばかりの發展を遂げた。更に
心豐に營んだ生活は忘れ得ぬものと傳へられてゐる。
亦、現在も尚パラオハイスクールでは日本の教育は
八紘爲宇を下に如何なる者も全て平等に扱ひ差別は
ない。日本人であらうが先住民であらうが努力した
者を平等に評價したと教へられてゐる。
因にパラオの國旗を知つてゐるだらうか。パラオの
國旗は日本の國旗に極めて類似してゐる。と言ふのは
日本に對する敬意から作られたものである。日本の
國旗は白地に赤の太陽が印されてゐるが、パラオの
國旗は海を表はす青地に黄色の月が印され、更に同じ
デザインでは日本に失禮として月を少し左に印されて
ゐる。亦、月は太陽が出なければ輝くことが出來ない。
つまり、月は太陽に依つて支へられ、月として生命を
持つとされ、太陽は日本のことである。
右記記されたことは、神代の教へからなる八紘爲宇の
教へを基にした武士道からなされた史實である。
このことを日本人は知る者は極く稀であり、國に誇ある
と言ふ者が増えることを筆者は心から切望するものである。


パラオ国旗
昭和五十六年
パラオ獨立の記念に
パラオ國民により作られた唄
ペリリュー島守備隊を讚へる唄
一、激しく彈雨(たま)が降り注ぎ
オレンジ濱を血で染めた
つわものたちは皆散つて
ペ島は全て墓(はか)となる
二、 小さな異國のこの島を
死んでも守ると誓ひつつ
山なす敵を迎へ撃ち
彈撃ち盡し食糧もない
三、 へいしは櫻を叫びつつ
これが最期の傳へごと
父母よ祖國よ妻や子よ
別れの「櫻」に意味深し
四、 日本の「櫻」は春いちど
四、 日本の「櫻」は春いちど
見事に咲いて明日は散る
ペ島の「櫻」は散り散りに
玉碎れども勳功はとこしえに
五、 今もののふの姿なく
殘りし洞窟の夢の跡
古いぺ島の習慣で
我等勇士の靈魂守る
六、 平和と自由の尊さを
六、 平和と自由の尊さを
身をこなにしてこの島に
教へて散りし「櫻花」
今では平和が甦へる
https://www.youtube.com/watch?v=3Yv471RNBfo&feature=player_embedded
この動画を是非見て頂きたい。
https://www.youtube.com/watch?v=3Yv471RNBfo&feature=player_embedded
この動画を是非見て頂きたい。
by iamhide3897
| 2015-03-13 23:30
| 大和舎
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